座敷わらしはどこに行った

2009年10月5日月曜日

その他

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目撃すると出世するという「座敷わらし」が出ることで有名だった緑風荘が全焼したそうだ。

この旅館に泊まったことはないが、この記事を読んであるエッセイを思い出した。というか、このエッセイで私は緑風荘の座敷わらしを知ったのだが。某法律関係団体の会報誌に掲載されたのだが、非常にお堅い雑誌であり、また、お堅い人揃いの集団なので、記事の信憑性は高いと言えよう。

エッセイは1975年頃の話だそうだが、かいつまんで書こう。
筆者が友人とバイク・ツーリング中、金田一温泉で「座敷わらしと混浴の宿 緑風荘へようこそ!」という看板を目にしてその日の宿を決めたが、座敷わらしの出る部屋は特別料金なので普通の部屋に泊まった。
夕飯後、テレビを見ながら酒を飲んでいるうち眠ってしまったが、一瞬だったようで、蛍光灯は点いたままで、テレビもさっきと同じ番組。ただ、部屋に筆者と友人のほかにもう一人いた。そう、座敷わらしである。特別料金の部屋じゃないのに。
時計を見ると21:25だったので、枕もとの地図に21:25と書き込んだ。そのあとの記憶はなく、気が付いたら翌朝。だが、枕もとの地図には21:25という書き込みが。
というものだ。

緑風荘は最近は3年先まで予約が一杯で、このように飛び込みで泊まることなどできなかったそうだが、まだ人気がでる前はお金さえ出せば泊まれた素朴な感じだったんですね。

ところで、この当時は混浴だったようだが、最近はどうだったんだろう?

最後に引用としては少々長すぎるが、そのエッセイの最後のパートをそのまま掲載しよう。
この出来事は、未だに私にとって解決されない心の“しこり”となっている。この手の話の多くは作り話である。これが作り話でないことの証明はできないが、ただ、作り話でないことは私自身が知っている。読んでいただいた方が作り話だと判断されることは自由だが、それでは私自身の心の“しこり”は一向に取れない。とりあえず、作り話でないことを前提にしていただきたい。

夢を見たのか。

確かに、「座敷わらし」の容貌・服装等見たままを具体的に描写せよと言われたら、まるでできない。今となっては、「水木しげる」の漫画に出てきそうな「座敷わらし」の画が想起されてくるだけである。

重大な事態が起こっている中で、「座敷わらし」に直接対峙(対話を試みるとか、触ってみるとか)しようともせず、再び寝入ってしまったのも不自然ではある。しかし、地図上の“21:25”の書き込みが残っていたこと(この地図自体は現存しないが、書き込みの存在は相棒の証言によって立証する予定である。)はどう説明したらいいのか。

夢と現(うつつ)が混濁した、つまり、寝ボケたか?寝ボケ行動は癖のようなもので、何度も起こるものだと聞く。しかし、寝ボケて何かしでかした、という経験は後にも先にもない。

恐怖感から幻覚を見たか?

「座敷わらし」は恐怖の対象どころか、むしろ、出ることを待望すべき対象である。仮に、得体の知れない妖怪一般に対する無意識的恐怖があったとしよう。しかし、私は心霊スポットとしてはもっと怖い場所に何度も行った経験があるが、そのような場所で同様の経験をしたことはない以上、ここでだけ幻覚を見るのはバランスを欠いている。

逆に、出世をしたいという熱望による期待感が幻覚を呼んだというのはどうか。

出世のための方法論として、妖怪に自らの命運を託すよりは、自らその道を切り拓く努力をする方が健全だと思うだけの判断力は持っているつもりである。したがって、幻覚をみるほどの真摯な期待感はなかったと思われる。

それならばいっそのこと、本当に出没した、とシンプルに考えるのはどうか。

しかし、なにしろ“妖怪”である。世の中には「精神エネルギーがもたらす各種の現象」、「霊魂」、あるいは「地球外生命体が乗った飛行物体」の存在を信じる人も多い(これらの人々を“オカルト派”と称しておく)。オカルト派の人々からは、これらをいっしょにするな!と怒られそうであるが、なぜか同一人がこれら全ての存在を信じる傾向があるため(「三位一体説」)、意外に怒られることは少ない。が、「妖怪」をいっしょにする発言をすると、急に怒られることが多くなる。オカルト派の内部でも、「妖怪」をも含めてその存在を唱える者(「四位一体説」)は異端とされるらしい。しかし、「妖怪」と「霊魂」との間にそれほど有意的な違いがあるようには思われない。オカルト派の人々に対しては、どうせなら、あらゆる超常的なものをおおらかに全部受け入れるだけの寛容さを期待したいところである。

それはそれとして、このようなオカルト派(但し、異端の人々を除く)の人々にとってさえ否定される「妖怪」が出没したなどということは、非オカルト派である私にとっては口が裂けても言いにくいことである。口が裂けると言いにくいのは当然でさえある。いや、そんなことよりもそもそも、「座敷わらし」が本当に出た、と考えることには明白かつ致命的な欠点がある。遭遇後15年経過しても未だ出世していないことである(わが相棒も同様である)。

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